私、自慢じゃないけど、自分ってよく何も覚えないでやってきたなと思う。
これまでの人生の中で、こういうのがよくありました。
「Aさん『大学で何を勉強してきたの?』
私『文学関係あれこれ』」
「Bさん『大学院で何を勉強してきたの?』
私『ジャーナリズムなんたらかんたら』」
「Cさん『仕事は何をしているの?』
私『ベトナム関係あれこれ』」
何一つ答えにならなかったもんね。質問した方に申し訳ないですが、
正直言いますと、私は同じ帰宅電車を2年以上も乗っているんですけど、
出口は左か右か、つい最近まで間違えて恥をかいたものですので。
大学の時、なんらかの理由で「レポートは自分で書いたの?」と先生に聞かれました。
「そうね、どうせ何も覚えてないから自分で書いたことにならないよね」とその時思いました。
人のアイデンティティは記憶と結びついているものです。
どこかで読んだけど、よぼよぼになってきたらせっかく身に付けた言語も忘れてしまうと言う人が結構いるようです。
私みたいな人は、そういう可能性が多いにあります。日本語どころかベトナム語さえも忘れてしまいそうです。
私、どちらかというとその前に死んでしまいたい。
「桜は綺麗な時に散るからいい」ってよく言うでしょう。
別に桜でもなんでもないんですけど、老後のことを思うとなんとなくその意味が分かります。
こんなにも忘れっぽいものなのに、
悲しみや憎しみだけはどうして何一つも忘れずにいられるのだろう。
これだけに関しては、自分でもびっくりするほどの記憶力が働きます。
楽しかったこと、嬉しかったことしか覚えていなくても困るんですけど、
どうせ忘れるなら、両方とも忘れてしまえば良かったのに。
人は記憶で形成されるものです。
その記憶は目に見えないフィルターに濾過され、
最後に残るのは必ずしも残しておきたいことばかりだとは限らない。
しかも、その多くはフィルターを通過するにあたって形さえも歪められてしまったかもしれない。
頼れないのは記憶。そして、人は変わっていく。
忘れん坊への、過去からの贈り物はただのぼんやりとした不安と訳の分からない寂しさのみ。
こうして、またおぼつかない明日が始まる。
0コメント