No.16「旅人」ー『中島みゆき 四十行のひとりごと』

 みゆきさんの『四十行のひとりごと』シリーズの最終回。タイトルは「旅人」です。

 あまりにも素敵なエッセイ集なので、もう最終回だなんて、なんだか悲しくなっちゃいますが…

 まあ悲しいなんか言っても仕方ないから、欲張りはほどほどにして、これまでの15回の内容をきちんと理解できるようにしよう。


 それにしても、今回の「旅人」は沁みすぎる内容です。

 大雑把にまとめてみると、生と死の間際に追い込まれた旅人の3人それぞれが、誰か・何かによって助言・手助けしてもらったことで、生き残るための希望(目指すべき目標?)が見いだされた。

 しかし、3人とも疲れ果ててるので、目指すべき目標に向かう代わりに、助言・手助けしてくれか誰か・何かのほうにそそられてしまった。

 結局、誰も目指すべき目標に達することができなかった。言い換えれば、救われなかった。

( ↑ 変なまとめ方ですみません)


 こんな奥の深い文章を下手に解釈すると怒られるかもしれませんが、

 せっかくですので、敢て自分なりの、つたない解釈を書かせていただきます。

 まず、人生を魂の旅だと思うと、「旅人」とはまさに我々のことではないでしょうか。

 3人の旅人が置かれる境遇はそれぞれ異なる=色んな人生があり、それぞれが求めるものとそれにたどり着くための道も一括りでは語れないものだ。

 これを読んで、「世界じゅうに ひとつとして同じ悲しみは無く/どんな想像力も 現実の悲しみには追いつかない」と、みゆきさんが「我々の宿題」で書いておられたのを思い出させられました。

 人の悲しみを比較したがったりする人もいるので、やっぱりみゆきさんは現実的でありながらも優しい方だなと改めて思いました。


 ええと、話を続けなければならないな…

 では、旅人が死にかけている時にそれぞれ希望・目標を見いだしてあげた人とものは果たして何を意味しているでしょうか。

 私は、それらは宗教家、思想家、教典などといったもののことを示していると思います。

 彼らによって導かれた道や方向は宗教、思想といったものを象徴しているでしょう。

 そして、道の彼方に見えてくる「灯」、「川」、「大気」はそれぞれの道が目指す最終的な目標。

 その目標に達することによって、旅人が救済されるだろう。

 暗闇に彷徨ってきた人は「灯」を、喉が渇いて死にそうになった人は「水」を、泥海で溺れかかっている人が「大気」を求めるように、人々がある特定の宗教や集団を頼りにするのは、道の向こうに自分が最も必要としているもの、自分がそれによってしか救われないものが見えてくるからではないでしょうか。

 例えば「灯」を求めている人が「水」を与えられても救われることにならないでしょう。

 だから様々な宗教や思想が誕生したのは、それぞれ異なる救われ方を求める人々に応えるためだと思います。

 一つの考え方によってのみ全人類が救済されるというのは、現実的に到底あり得ないことでしょう。

 多文化・多宗教社会の成り立ちが望ましいのは、そのためではないでしょうか。


 さて、ここで最も重要なポイントは、旅人がもう疲れはてたので、ヒントを見いだしてくれた人やもののほうにそそられてしまい、最終的な目標へ向かおうとしていたことさえ忘れてしまったことです。

 これはとても痛ましい悲劇だと思います。しかも同じような悲劇を、魂は何度生まれ変わっても繰り返すものらしいです。

 (「無明だから」と考えることもできますが、みゆきさんは「疲れすぎていたから」と仰っています。やっぱり優しいんですから... TOT )

 道を教えてもらった人がちゃんと目的地にたどり着けないままでは、教えた人(師?)も喜ばないでしょう。例えば彼らがいくら神格化され拝められるとしても。


 偉そうなことばかり書いてきたな。。。いや、実は自己批判のつもりで書いております。

 乱暴な例え方をすると、例えば私は喉乾いて死にそうな旅人であれば、「そちらへ進めば川があるでしょう」と石盤に文字を残してくれるのはみゆきさん。

 さて、今の私って果たしてどちらへ向かおうとしているのかしら。

 感謝と依存は全く違うものですね。

 だけど、そんな当たり前のこともつい最近まで分からなかったもんね。

「みゆきさんがいなければイヤだー!」 と自己暗示みたいにいつまでも言い続けるのではなく、

 ゴールを目指すべく、自分の足で見せてもらった道を歩んでいくべきだったのね。

 元々、道は一つしかないのではないはずです。

 本当は、いろんな情報源からいろんな知恵を得て、自分で判断して取捨選択した上で前へ進んでいくべきでした。

 だけど長い間、それができずにいました。もちろん自分のせいにほかならないんです。


 この間の夜会vol.20『リトル・トーキョー』で、最後の場面に主人公の杏奴(みゆきさん)が小雪ちゃん(母を亡くして、リトル・トーキョーで育てられた山犬の女の子)に「放生」を歌ったのを思い出しました。

  「。。。命あるもの全て 終わりは有る 別れは有る。。。

   。。。さあ 旅立ちなさい もう歩いて行けるわ。。。」

 これを聞いた時、「ヤーだ、まだ無理でしょう~それに行く先なんてないでしょう!」と心の中で叫んでいました(苦笑)。

 やっぱり、自分のことを重ねて聞いちゃったからでしょうね。

 のんきが呑気すぎていくつになっても大人になろうとしないからです。なんだかみっともないですが…

 

 のんきもいつか小雪ちゃんみたいに、「みゆきさん、ありがとう。もう一人立ちできるわ」と言えるようになれればいいんですけどね。

 「自立」はまた、「永遠の別れ」と違うでしょう。

 のんきの心の中では、いつもみゆきさんの声が聞こえてきます。

 「私たちは二隻の船 一つずつのそして一つの」

 私を含めて、ファンとみゆきさんはいつも心でつながっているから、

 例えばどんなに離れていても恐れることはないでしょう。


 極めて乱雑な内容でしたが、久しぶりに書きたいことが書けてすっきりしたね。

 みゆきさん、いつもいろんなことに気付かせてくださって、本当にありがとう。

 これからもいろんなことをとことん考えさせられるのが楽しみです。

 私の今生の課題はきっと、呑気すぎて思考停止してしまわないことなんですから。


のんきの日記

日本語学習者であり、語学関係の仕事をしています。敬愛する中島みゆきさんへのトリビュートのために、本サイトの全ての内容を日本語で書くことにしました。

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