私は、なんとなく「月日」という言葉が好きでたまりません。
「月日」といえば、何を思い浮かべますか。
「生年月日」の月日のことですか。それとも「大空を照らすお月様と太陽」のことですか。
そういえば、神様のことを「月日」とか、「日月」と呼ぶ宗教がいくつかあります。
私は無宗教です。基本的に信じたいことしか信じていません。
それに、ボランティアが嫌いだし聞き分けも悪いので、今後もどれか特定の宗教に入信する予定がありません。
でも、なぜか「月日」という言葉が好きでたまりません。
その言霊に宿っている計り知れない神聖さに、神様を感じさせられずにいられないのです。
だって、天文学の対象としての月と太陽を考える場合でも、
両者のどちらかが欠けたら、地球に生命が誕生するはずがなかったです。
命あるものにとって、月と太陽は母と父のような存在でしょう。
それに、この前の投稿にも書きましたが、
「地球が生まれる確率は 小学校などにある25メートルプールに
バラバラにした時計の部品を投げ込み 水流だけで組立つ確率と同じ」
と言われているようです。
この奇跡的な出来事は、たまたま月と太陽が最適の条件下で揃っていて初めて起こったわけです。
果てしない宇宙の中でとんでもない偶然が奇跡を生み出したとは、なんと神秘的なことでしょう。
その神秘さを敢て神と呼ばないようにしても、何とも言えない有難さが感じられるのです。
「つ・き・ひ」ーこの言葉を聞くだけでなんとなくホッとしてしまいます。
命はありのままだけで奇跡だということを思い出させられるからです。
例えば自分がどのような環境に生れ、どのように育ってきたとしても。
例えばいつかある日に、全てから遠ざけられるようになったとしても。
命がある限り、限りなく受け止めてくれると共に、絶え間なく守ってくれる何かがあるはずです。
それは、毎回の呼吸を支えてくれるようなもので、
目には見えないし気付かれることもないかもしれないが、いつもそばにいてくれるはずです。
どんな時も寄り添ってくれる月日の働き。
その優しさと神聖さによって見守られているあなたは、あなたのままで尊い存在であり、紛れもない奇跡です。
見上げたり、見下ろしたりする必要がありません。
自分と他人のことを比較したり、争いごとに巻き込まれる必要もないでしょう。
「生年月日」の月日にも、不思議な言霊が潜んでいます。
人は自分の意識だけで自分の命を絶つことができるとしても、自分の意識だけで好きなだけ生き続けることができません。
だから過ごしてきた月日も、「今」の後に来る月日も、当たり前のものではありません。
誰にだって明日がいつ来なくなってもおかしくないし、それが分からないため、
今日という一日、そして短い人生で経験し得る時間としての全ての月日は、
ある意味で神様の恩恵だといっても良いほど有難いものではないでしょうか。
二度と起こり得ない奇跡としての命と、せっかくの恵みとして与えられた月日。
こんな私にでも、命があるうちにやっておきたいことがいくつかあります。
それなのに毎日ボーっとしたり、争いごとや見栄の張り合いに巻き込まれたりするうちに、
それらも忘れかけそうになっています。
「いい加減に目を覚めろ」と叫ぶ時計の針音が聞こえてきています。
残りの時間だけで、やっておきたいことが果たしてどこまでできるのかしら。
一寸先の闇の中で、果たして自分が納得できる答えが見つけられるのかしら。
「答えは自分で作るしかないんだよ」と、密かに時計の針が呟いている。
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