#気紛れのエッセイ #非母語 #激妄想

毎年必ずやってくる母の日。
今日という一日を思い出深く楽しく過ごせる人はどれだけ幸せなことか。
今日という一日、人の幸せぶりを見て憧れながら戸惑ってしまう者もどこかにいるはずだ。

輝く月の裏面なら、永遠に人目に触れることなく、永遠に忘れられてゆく。
話題にすることさえ、こんな日には不都合らしい。

旅先は今日も雨の中。
雨の音とと共にいつまでも胸に響くのは、
雨宿り先のドアの閉まる音。

雨のたびにずぶ濡れてしまう迷子たちからすれば、
これは昔から何度ともなく繰り返してきた光景。
だからこそ一雨ごとに、果たして自分に生きる価値があるのかという迷いがより一層深まっていくばかり。。。

そんなはずがないんだよ。。。

ねえ、まだ覚えているのか。
あなたが生まれるずっと前から歌っていた海の歌。
その歌を教えてくれたのは誰の声だったのだろう。

ねえ、覚えているのか。
物心がついたばかりの頃から、時々どこからともなく蘇ってきたその懐かしさ。
それは、何かとても大切なものから引き離された気持ちみたいなものだ。
これ以上もなく愛しくて切なくて、思い出すたびに涙が溢れるほど懐かしいそれが何だったのだろう。
触れようにも取り戻そうにも手が届かなくて、
いつか再び出会える日を夢見て、
いつまでも旅を続けているのね。

彷徨う人よ、いつまでも忘れないでいてよ。
遠い昔に教えてもらったその歌は、
今日もあなたの中で流れているのではないか。
脈の音よりもずっとひそやかなそのメロディーは、
あなたの魂が生まれた時に喜んでくれた誰かの声に似ているのではないか。

一人になったからこそ歌声が聞こえてくる。
一人になったからこそ、どんな時も一人ではなかったことに気がつく。

「面白可笑しいことだけに囲まれた人を

陽気な人と呼ぶなら そんなのどこにもいない

意志で踏みこたえて 人は陽気にしている

それでも ついに意志だけでは到底もたない事態もある

そのとき くじけた意志を救う陽気は どこにあるか」

ー中島みゆきー『我々の宿題』 

全文→https://hikino-effect.at.webry.info/201902/article_13.html

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「くじけた意志を救う陽気は どこにあるか」

どこにあるでしょうね。。。

それは、神様に向きあおうとしている自分の中にあるかもしれない、たぶん。

無宗教のお前が何てこと言うんだ!って怒られるかもしれないけど、無宗教=無神論者ではないんですから。

神様はいると信じていますよ。

ただ、神様の姿を何か形のあるものに例えてみろと言われたら、それはさすがに答えられない。

まあ、いいんじゃないか。本当の神様は人間みたいに形に拘りたがるはずがないと(勝手に?)思いますし。

もちろん形を通して心を表そうとするという人もたくさんいるけど、そこまで真面目にできるなら、たぶん私のいる次元はもう此処ではなかったでしょう。

だから、結局神様とつながるものは形ではなく心だと思いたいんです。


自分が納得する神様。自分を限りなく受け止めてくれる神様。

それは例えばイエス・キリストやアッラーではなくても気を落とさなくてもいいでしょう。

仏様やよろずの神々など、あなたを待っている神様は他にも数限りなくいるから。。。


今日もぐったりでがっくりした一日だったね。

明日も同じ一日だろうとしか思えなくなって、もはや一人で立つ力もでなくなりそうだわ。

だけどね、そんなにあっさり忘れないでよ。

あの日奇跡的に助けてもらったこと、まだ覚えているよね。

あの瞬間神様を感じさせられたこと、まだ覚えているよね。

それだけは忘れないでよ。

「ここにいるよ 愛はまだここにいるよ うつむかないで」

それへの感謝として、この暗闇に打ちひしがれないようにしてよ。

月も陽もない暗闇の底にも、雪が宙を真っ黒にしないために降って来ている❄️
 雪の音が聴きたくて、ただただ耳を澄ましている🌨
#中島みゆき #エッセイ #月も陽も #感想
#六花 #連想
 みゆきさんの文章を読むと、なんだか心が洗われたような気がしてホッとするわ。
「 月も陽もない暗闇の底」って、今の気持ちにぴったりだわ…
 でも。。。ちょっと待って!
 何が暗闇の底なんだよ、ったく!
 今って、一昔と比べたらマジで天国なんじゃないか。
 大体甘えなんだよ、自分っていうやつは。
 どこにいても闇の底だって無条件反射のように愚痴るようなやつなんだから、もう我ながらげんなりなんだ。
 感謝の気持ちを少しでも思い出してみろよ!
 みゆきさんへの感謝、これまで自分を支えてきた全ての人やものへの感謝。
 だって今までの自分の能力と努力だけでは、もっともっと惨めな結果にしかならなかったはずなんだろう。
 それでも今ここで愚痴っていられるのは、感謝の心が足りなさ過ぎるからにほかないんだよね。
 
 分かってるのよ。
 でもね、やっぱりこんな日はせめてみゆきさんの世界にどっぷり浸かってから、そのまま眠りについてしまいたいんだわ。
 何もかも思い出さなくていいんじゃないか。
 何もかも忘れてしまいたい。
 木星や土星の衛星にも地下海があるようです。
 海があるということは、魚がある可能性もあり得ますよね!
 もしあるとしたら、どんな味がする魚なんでしょう。。。お刺身にしたら美味しいかな😋なんだか味見したくなっちゃった🐟
 生命があると考えられる惑星での黄昏の風景です(もちろん仮想なんですが。。。)
 個人的には最後のGliese 581d は良さそうです。日差しが強くなくて涼しそうですから。
 もし来生があるなら、今度は地球よりもうちょっと涼しい星に生まれ変わりたいです。
 このささやかな願いは果たして叶うだろうか。。。死んでみないと分からないよね。
 「あんたの生まれ変わる場所は間違いなく地獄だぞ!」との神様の声が聴こえてきそうだな😅

私は、なんとなく「月日」という言葉が好きでたまりません。

「月日」といえば、何を思い浮かべますか。

「生年月日」の月日のことですか。それとも「大空を照らすお月様と太陽」のことですか。


そういえば、神様のことを「月日」とか、「日月」と呼ぶ宗教がいくつかあります。

私は無宗教です。基本的に信じたいことしか信じていません。

それに、ボランティアが嫌いだし聞き分けも悪いので、今後もどれか特定の宗教に入信する予定がありません。


でも、なぜか「月日」という言葉が好きでたまりません。

その言霊に宿っている計り知れない神聖さに、神様を感じさせられずにいられないのです。

だって、天文学の対象としての月と太陽を考える場合でも、

両者のどちらかが欠けたら、地球に生命が誕生するはずがなかったです。

命あるものにとって、月と太陽は母と父のような存在でしょう。

それに、この前の投稿にも書きましたが、

「地球が生まれる確率は 小学校などにある25メートルプールに 

バラバラにした時計の部品を投げ込み 水流だけで組立つ確率と同じ」

と言われているようです。

この奇跡的な出来事は、たまたま月と太陽が最適の条件下で揃っていて初めて起こったわけです。

果てしない宇宙の中でとんでもない偶然が奇跡を生み出したとは、なんと神秘的なことでしょう。

その神秘さを敢て神と呼ばないようにしても、何とも言えない有難さが感じられるのです。


「つ・き・ひ」ーこの言葉を聞くだけでなんとなくホッとしてしまいます。

命はありのままだけで奇跡だということを思い出させられるからです。

例えば自分がどのような環境に生れ、どのように育ってきたとしても。

例えばいつかある日に、全てから遠ざけられるようになったとしても。

命がある限り、限りなく受け止めてくれると共に、絶え間なく守ってくれる何かがあるはずです。

それは、毎回の呼吸を支えてくれるようなもので、

目には見えないし気付かれることもないかもしれないが、いつもそばにいてくれるはずです。


どんな時も寄り添ってくれる月日の働き。

その優しさと神聖さによって見守られているあなたは、あなたのままで尊い存在であり、紛れもない奇跡です。

見上げたり、見下ろしたりする必要がありません。

自分と他人のことを比較したり、争いごとに巻き込まれる必要もないでしょう。


「生年月日」の月日にも、不思議な言霊が潜んでいます。

人は自分の意識だけで自分の命を絶つことができるとしても、自分の意識だけで好きなだけ生き続けることができません。

だから過ごしてきた月日も、「今」の後に来る月日も、当たり前のものではありません。

誰にだって明日がいつ来なくなってもおかしくないし、それが分からないため、

今日という一日、そして短い人生で経験し得る時間としての全ての月日は、

ある意味で神様の恩恵だといっても良いほど有難いものではないでしょうか。


二度と起こり得ない奇跡としての命と、せっかくの恵みとして与えられた月日。

こんな私にでも、命があるうちにやっておきたいことがいくつかあります。

それなのに毎日ボーっとしたり、争いごとや見栄の張り合いに巻き込まれたりするうちに、

それらも忘れかけそうになっています。

「いい加減に目を覚めろ」と叫ぶ時計の針音が聞こえてきています。

残りの時間だけで、やっておきたいことが果たしてどこまでできるのかしら。

一寸先の闇の中で、果たして自分が納得できる答えが見つけられるのかしら。

「答えは自分で作るしかないんだよ」と、密かに時計の針が呟いている。

 みゆきさんの『四十行のひとりごと』シリーズの最終回。タイトルは「旅人」です。

 あまりにも素敵なエッセイ集なので、もう最終回だなんて、なんだか悲しくなっちゃいますが…

 まあ悲しいなんか言っても仕方ないから、欲張りはほどほどにして、これまでの15回の内容をきちんと理解できるようにしよう。


 それにしても、今回の「旅人」は沁みすぎる内容です。

 大雑把にまとめてみると、生と死の間際に追い込まれた旅人の3人それぞれが、誰か・何かによって助言・手助けしてもらったことで、生き残るための希望(目指すべき目標?)が見いだされた。

 しかし、3人とも疲れ果ててるので、目指すべき目標に向かう代わりに、助言・手助けしてくれか誰か・何かのほうにそそられてしまった。

 結局、誰も目指すべき目標に達することができなかった。言い換えれば、救われなかった。

( ↑ 変なまとめ方ですみません)


 こんな奥の深い文章を下手に解釈すると怒られるかもしれませんが、

 せっかくですので、敢て自分なりの、つたない解釈を書かせていただきます。

 まず、人生を魂の旅だと思うと、「旅人」とはまさに我々のことではないでしょうか。

 3人の旅人が置かれる境遇はそれぞれ異なる=色んな人生があり、それぞれが求めるものとそれにたどり着くための道も一括りでは語れないものだ。

 これを読んで、「世界じゅうに ひとつとして同じ悲しみは無く/どんな想像力も 現実の悲しみには追いつかない」と、みゆきさんが「我々の宿題」で書いておられたのを思い出させられました。

 人の悲しみを比較したがったりする人もいるので、やっぱりみゆきさんは現実的でありながらも優しい方だなと改めて思いました。


 ええと、話を続けなければならないな…

 では、旅人が死にかけている時にそれぞれ希望・目標を見いだしてあげた人とものは果たして何を意味しているでしょうか。

 私は、それらは宗教家、思想家、教典などといったもののことを示していると思います。

 彼らによって導かれた道や方向は宗教、思想といったものを象徴しているでしょう。

 そして、道の彼方に見えてくる「灯」、「川」、「大気」はそれぞれの道が目指す最終的な目標。

 その目標に達することによって、旅人が救済されるだろう。

 暗闇に彷徨ってきた人は「灯」を、喉が渇いて死にそうになった人は「水」を、泥海で溺れかかっている人が「大気」を求めるように、人々がある特定の宗教や集団を頼りにするのは、道の向こうに自分が最も必要としているもの、自分がそれによってしか救われないものが見えてくるからではないでしょうか。

 例えば「灯」を求めている人が「水」を与えられても救われることにならないでしょう。

 だから様々な宗教や思想が誕生したのは、それぞれ異なる救われ方を求める人々に応えるためだと思います。

 一つの考え方によってのみ全人類が救済されるというのは、現実的に到底あり得ないことでしょう。

 多文化・多宗教社会の成り立ちが望ましいのは、そのためではないでしょうか。


 さて、ここで最も重要なポイントは、旅人がもう疲れはてたので、ヒントを見いだしてくれた人やもののほうにそそられてしまい、最終的な目標へ向かおうとしていたことさえ忘れてしまったことです。

 これはとても痛ましい悲劇だと思います。しかも同じような悲劇を、魂は何度生まれ変わっても繰り返すものらしいです。

 (「無明だから」と考えることもできますが、みゆきさんは「疲れすぎていたから」と仰っています。やっぱり優しいんですから... TOT )

 道を教えてもらった人がちゃんと目的地にたどり着けないままでは、教えた人(師?)も喜ばないでしょう。例えば彼らがいくら神格化され拝められるとしても。


 偉そうなことばかり書いてきたな。。。いや、実は自己批判のつもりで書いております。

 乱暴な例え方をすると、例えば私は喉乾いて死にそうな旅人であれば、「そちらへ進めば川があるでしょう」と石盤に文字を残してくれるのはみゆきさん。

 さて、今の私って果たしてどちらへ向かおうとしているのかしら。

 感謝と依存は全く違うものですね。

 だけど、そんな当たり前のこともつい最近まで分からなかったもんね。

「みゆきさんがいなければイヤだー!」 と自己暗示みたいにいつまでも言い続けるのではなく、

 ゴールを目指すべく、自分の足で見せてもらった道を歩んでいくべきだったのね。

 元々、道は一つしかないのではないはずです。

 本当は、いろんな情報源からいろんな知恵を得て、自分で判断して取捨選択した上で前へ進んでいくべきでした。

 だけど長い間、それができずにいました。もちろん自分のせいにほかならないんです。


 この間の夜会vol.20『リトル・トーキョー』で、最後の場面に主人公の杏奴(みゆきさん)が小雪ちゃん(母を亡くして、リトル・トーキョーで育てられた山犬の女の子)に「放生」を歌ったのを思い出しました。

  「。。。命あるもの全て 終わりは有る 別れは有る。。。

   。。。さあ 旅立ちなさい もう歩いて行けるわ。。。」

 これを聞いた時、「ヤーだ、まだ無理でしょう~それに行く先なんてないでしょう!」と心の中で叫んでいました(苦笑)。

 やっぱり、自分のことを重ねて聞いちゃったからでしょうね。

 のんきが呑気すぎていくつになっても大人になろうとしないからです。なんだかみっともないですが…

 

 のんきもいつか小雪ちゃんみたいに、「みゆきさん、ありがとう。もう一人立ちできるわ」と言えるようになれればいいんですけどね。

 「自立」はまた、「永遠の別れ」と違うでしょう。

 のんきの心の中では、いつもみゆきさんの声が聞こえてきます。

 「私たちは二隻の船 一つずつのそして一つの」

 私を含めて、ファンとみゆきさんはいつも心でつながっているから、

 例えばどんなに離れていても恐れることはないでしょう。


 極めて乱雑な内容でしたが、久しぶりに書きたいことが書けてすっきりしたね。

 みゆきさん、いつもいろんなことに気付かせてくださって、本当にありがとう。

 これからもいろんなことをとことん考えさせられるのが楽しみです。

 私の今生の課題はきっと、呑気すぎて思考停止してしまわないことなんですから。


 関係者が語らなかったら誰も知らない話ばかりです😭ウルウル😢
 やっぱりみゆきさんを人生の師匠にして良かったなとつくづく思っています。のんきは、何度生まれ変わったら同じような生き方が出来るのかしら。
 そもそも、出来ないと言って逃げてばかりいるところはダメなんですね。もう我ながらあきれてしまいます🍃
 やっぱりのんきももうちょっとまともな大人になれるように頑張らないと師匠に失礼ですから🤔
出典:http://wonderyes.seesaa.net/article/12128497.html
「縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない」

「縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」

中島みゆきさんの「糸」は、宇宙スケールにおいても普遍性を持ちます。

「あいにくだが私はイタダキマスを言う。給食を作った人や、給食代を支払った人や、

食材となった植物や動物を貸してくださった神という方に、謙って私はイタダキマスを言う」

「頭を下げたくらいのことで人品は下がらない。頭を下げさせようと図ったときにこそ人品は下がる」

 そういえばうちの親も同じようなことを言っていた気がするんですが、その時耳を傾けようともしなかったのはなぜなんだろう…

 でもやっぱり、こうした東洋的な考え方には馴染みを感じます。

全文はこちらです↓