神様のことを一つも語らずに、
— のんき (@shizuka112) May 23, 2020
神様の愛を感じさせてくれるもの。
それは中島みゆきさんの音楽です🎶
↑これはあくまでもマニアックファンの私見です😃 pic.twitter.com/QlkVQAcWOU
のんきの日記
日本語学習者であり、語学関係の仕事をしています。敬愛する中島みゆきさんへのトリビュートのために、本サイトの全ての内容を日本語で書くことにしました。
何も知らずに 僕は一人だ
— のんき (@shizuka112) September 25, 2019
この樹の根は 何処にあったのだろう
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「樹の根」=「魂の源」?
そういえば覚えてはいないけど、
時々すごく懐かしい何かが蘇って来たような気もなんとなくする。
涙なしでは聞けないシングルでした💐#中島みゆき #離郷の歌 #進化樹 https://t.co/oaJKCgIgip
「面白可笑しいことだけに囲まれた人を
陽気な人と呼ぶなら そんなのどこにもいない
意志で踏みこたえて 人は陽気にしている
それでも ついに意志だけでは到底もたない事態もある
そのとき くじけた意志を救う陽気は どこにあるか」
ー中島みゆきー『我々の宿題』
全文→https://hikino-effect.at.webry.info/201902/article_13.html
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「くじけた意志を救う陽気は どこにあるか」
どこにあるでしょうね。。。
それは、神様に向きあおうとしている自分の中にあるかもしれない、たぶん。
無宗教のお前が何てこと言うんだ!って怒られるかもしれないけど、無宗教=無神論者ではないんですから。
神様はいると信じていますよ。
ただ、神様の姿を何か形のあるものに例えてみろと言われたら、それはさすがに答えられない。
まあ、いいんじゃないか。本当の神様は人間みたいに形に拘りたがるはずがないと(勝手に?)思いますし。
もちろん形を通して心を表そうとするという人もたくさんいるけど、そこまで真面目にできるなら、たぶん私のいる次元はもう此処ではなかったでしょう。
だから、結局神様とつながるものは形ではなく心だと思いたいんです。
自分が納得する神様。自分を限りなく受け止めてくれる神様。
それは例えばイエス・キリストやアッラーではなくても気を落とさなくてもいいでしょう。
仏様やよろずの神々など、あなたを待っている神様は他にも数限りなくいるから。。。
今日もぐったりでがっくりした一日だったね。
明日も同じ一日だろうとしか思えなくなって、もはや一人で立つ力もでなくなりそうだわ。
だけどね、そんなにあっさり忘れないでよ。
あの日奇跡的に助けてもらったこと、まだ覚えているよね。
あの瞬間神様を感じさせられたこと、まだ覚えているよね。
それだけは忘れないでよ。
「ここにいるよ 愛はまだここにいるよ うつむかないで」
それへの感謝として、この暗闇に打ちひしがれないようにしてよ。
私は、なんとなく「月日」という言葉が好きでたまりません。
「月日」といえば、何を思い浮かべますか。
「生年月日」の月日のことですか。それとも「大空を照らすお月様と太陽」のことですか。
そういえば、神様のことを「月日」とか、「日月」と呼ぶ宗教がいくつかあります。
私は無宗教です。基本的に信じたいことしか信じていません。
それに、ボランティアが嫌いだし聞き分けも悪いので、今後もどれか特定の宗教に入信する予定がありません。
でも、なぜか「月日」という言葉が好きでたまりません。
その言霊に宿っている計り知れない神聖さに、神様を感じさせられずにいられないのです。
だって、天文学の対象としての月と太陽を考える場合でも、
両者のどちらかが欠けたら、地球に生命が誕生するはずがなかったです。
命あるものにとって、月と太陽は母と父のような存在でしょう。
それに、この前の投稿にも書きましたが、
「地球が生まれる確率は 小学校などにある25メートルプールに
バラバラにした時計の部品を投げ込み 水流だけで組立つ確率と同じ」
と言われているようです。
この奇跡的な出来事は、たまたま月と太陽が最適の条件下で揃っていて初めて起こったわけです。
果てしない宇宙の中でとんでもない偶然が奇跡を生み出したとは、なんと神秘的なことでしょう。
その神秘さを敢て神と呼ばないようにしても、何とも言えない有難さが感じられるのです。
「つ・き・ひ」ーこの言葉を聞くだけでなんとなくホッとしてしまいます。
命はありのままだけで奇跡だということを思い出させられるからです。
例えば自分がどのような環境に生れ、どのように育ってきたとしても。
例えばいつかある日に、全てから遠ざけられるようになったとしても。
命がある限り、限りなく受け止めてくれると共に、絶え間なく守ってくれる何かがあるはずです。
それは、毎回の呼吸を支えてくれるようなもので、
目には見えないし気付かれることもないかもしれないが、いつもそばにいてくれるはずです。
どんな時も寄り添ってくれる月日の働き。
その優しさと神聖さによって見守られているあなたは、あなたのままで尊い存在であり、紛れもない奇跡です。
見上げたり、見下ろしたりする必要がありません。
自分と他人のことを比較したり、争いごとに巻き込まれる必要もないでしょう。
「生年月日」の月日にも、不思議な言霊が潜んでいます。
人は自分の意識だけで自分の命を絶つことができるとしても、自分の意識だけで好きなだけ生き続けることができません。
だから過ごしてきた月日も、「今」の後に来る月日も、当たり前のものではありません。
誰にだって明日がいつ来なくなってもおかしくないし、それが分からないため、
今日という一日、そして短い人生で経験し得る時間としての全ての月日は、
ある意味で神様の恩恵だといっても良いほど有難いものではないでしょうか。
二度と起こり得ない奇跡としての命と、せっかくの恵みとして与えられた月日。
こんな私にでも、命があるうちにやっておきたいことがいくつかあります。
それなのに毎日ボーっとしたり、争いごとや見栄の張り合いに巻き込まれたりするうちに、
それらも忘れかけそうになっています。
「いい加減に目を覚めろ」と叫ぶ時計の針音が聞こえてきています。
残りの時間だけで、やっておきたいことが果たしてどこまでできるのかしら。
一寸先の闇の中で、果たして自分が納得できる答えが見つけられるのかしら。
「答えは自分で作るしかないんだよ」と、密かに時計の針が呟いている。
みゆきさんの『四十行のひとりごと』シリーズの最終回。タイトルは「旅人」です。
あまりにも素敵なエッセイ集なので、もう最終回だなんて、なんだか悲しくなっちゃいますが…
まあ悲しいなんか言っても仕方ないから、欲張りはほどほどにして、これまでの15回の内容をきちんと理解できるようにしよう。
それにしても、今回の「旅人」は沁みすぎる内容です。
大雑把にまとめてみると、生と死の間際に追い込まれた旅人の3人それぞれが、誰か・何かによって助言・手助けしてもらったことで、生き残るための希望(目指すべき目標?)が見いだされた。
しかし、3人とも疲れ果ててるので、目指すべき目標に向かう代わりに、助言・手助けしてくれか誰か・何かのほうにそそられてしまった。
結局、誰も目指すべき目標に達することができなかった。言い換えれば、救われなかった。
( ↑ 変なまとめ方ですみません)
こんな奥の深い文章を下手に解釈すると怒られるかもしれませんが、
せっかくですので、敢て自分なりの、つたない解釈を書かせていただきます。
3人の旅人が置かれる境遇はそれぞれ異なる=色んな人生があり、それぞれが求めるものとそれにたどり着くための道も一括りでは語れないものだ。
これを読んで、「世界じゅうに ひとつとして同じ悲しみは無く/どんな想像力も 現実の悲しみには追いつかない」と、みゆきさんが「我々の宿題」で書いておられたのを思い出させられました。
人の悲しみを比較したがったりする人もいるので、やっぱりみゆきさんは現実的でありながらも優しい方だなと改めて思いました。
ええと、話を続けなければならないな…
では、旅人が死にかけている時にそれぞれ希望・目標を見いだしてあげた人とものは果たして何を意味しているでしょうか。
私は、それらは宗教家、思想家、教典などといったもののことを示していると思います。
彼らによって導かれた道や方向は宗教、思想といったものを象徴しているでしょう。
そして、道の彼方に見えてくる「灯」、「川」、「大気」はそれぞれの道が目指す最終的な目標。
その目標に達することによって、旅人が救済されるだろう。
暗闇に彷徨ってきた人は「灯」を、喉が渇いて死にそうになった人は「水」を、泥海で溺れかかっている人が「大気」を求めるように、人々がある特定の宗教や集団を頼りにするのは、道の向こうに自分が最も必要としているもの、自分がそれによってしか救われないものが見えてくるからではないでしょうか。
例えば「灯」を求めている人が「水」を与えられても救われることにならないでしょう。
だから様々な宗教や思想が誕生したのは、それぞれ異なる救われ方を求める人々に応えるためだと思います。
一つの考え方によってのみ全人類が救済されるというのは、現実的に到底あり得ないことでしょう。
多文化・多宗教社会の成り立ちが望ましいのは、そのためではないでしょうか。
さて、ここで最も重要なポイントは、旅人がもう疲れはてたので、ヒントを見いだしてくれた人やもののほうにそそられてしまい、最終的な目標へ向かおうとしていたことさえ忘れてしまったことです。
これはとても痛ましい悲劇だと思います。しかも同じような悲劇を、魂は何度生まれ変わっても繰り返すものらしいです。
(「無明だから」と考えることもできますが、みゆきさんは「疲れすぎていたから」と仰っています。やっぱり優しいんですから... TOT )
道を教えてもらった人がちゃんと目的地にたどり着けないままでは、教えた人(師?)も喜ばないでしょう。例えば彼らがいくら神格化され拝められるとしても。
偉そうなことばかり書いてきたな。。。いや、実は自己批判のつもりで書いております。
乱暴な例え方をすると、例えば私は喉乾いて死にそうな旅人であれば、「そちらへ進めば川があるでしょう」と石盤に文字を残してくれるのはみゆきさん。
さて、今の私って果たしてどちらへ向かおうとしているのかしら。
感謝と依存は全く違うものですね。
だけど、そんな当たり前のこともつい最近まで分からなかったもんね。
「みゆきさんがいなければイヤだー!」 と自己暗示みたいにいつまでも言い続けるのではなく、
ゴールを目指すべく、自分の足で見せてもらった道を歩んでいくべきだったのね。
元々、道は一つしかないのではないはずです。
本当は、いろんな情報源からいろんな知恵を得て、自分で判断して取捨選択した上で前へ進んでいくべきでした。
だけど長い間、それができずにいました。もちろん自分のせいにほかならないんです。
この間の夜会vol.20『リトル・トーキョー』で、最後の場面に主人公の杏奴(みゆきさん)が小雪ちゃん(母を亡くして、リトル・トーキョーで育てられた山犬の女の子)に「放生」を歌ったのを思い出しました。
「。。。命あるもの全て 終わりは有る 別れは有る。。。
。。。さあ 旅立ちなさい もう歩いて行けるわ。。。」
これを聞いた時、「ヤーだ、まだ無理でしょう~それに行く先なんてないでしょう!」と心の中で叫んでいました(苦笑)。
やっぱり、自分のことを重ねて聞いちゃったからでしょうね。
のんきが呑気すぎていくつになっても大人になろうとしないからです。なんだかみっともないですが…
のんきもいつか小雪ちゃんみたいに、「みゆきさん、ありがとう。もう一人立ちできるわ」と言えるようになれればいいんですけどね。
「自立」はまた、「永遠の別れ」と違うでしょう。
のんきの心の中では、いつもみゆきさんの声が聞こえてきます。
「私たちは二隻の船 一つずつのそして一つの」
私を含めて、ファンとみゆきさんはいつも心でつながっているから、
例えばどんなに離れていても恐れることはないでしょう。
極めて乱雑な内容でしたが、久しぶりに書きたいことが書けてすっきりしたね。
みゆきさん、いつもいろんなことに気付かせてくださって、本当にありがとう。
これからもいろんなことをとことん考えさせられるのが楽しみです。
私の今生の課題はきっと、呑気すぎて思考停止してしまわないことなんですから。
中島みゆきさんの連載「四十行のひとりごと」第16回 最終回「旅人」が掲載された天理時報が届きました。#中島みゆき pic.twitter.com/8J2uyag2Mz
— 中島みゆきの名言 (@_miyuki0223) July 13, 2019
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない」
「縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」
中島みゆきさんの「糸」は、宇宙スケールにおいても普遍性を持ちます。
「あいにくだが私はイタダキマスを言う。給食を作った人や、給食代を支払った人や、
食材となった植物や動物を貸してくださった神という方に、謙って私はイタダキマスを言う」
「頭を下げたくらいのことで人品は下がらない。頭を下げさせようと図ったときにこそ人品は下がる」
そういえばうちの親も同じようなことを言っていた気がするんですが、その時耳を傾けようともしなかったのはなぜなんだろう…
でもやっぱり、こうした東洋的な考え方には馴染みを感じます。
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